タレント本の走りといわれる、山口百恵の自叙伝『蒼い時』。
最近、機会があり読みました。
伝説の本書に綴られた概要と、山口百恵の当時の思い。
そして率直な感想を書きます。
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【タレント本・自叙伝】蒼い時/山口百恵を読んで【概要と感想】
山口百恵のプロフィール
まずは、著者である山口百恵のプロフィールです。
<プロフィール>
氏名:三浦百恵(みうらももえ)旧姓:山口百恵
生年月日:1959年1月17日
出生地:東京都渋谷区恵比寿
出身地:神奈川県横須賀市
学歴:日出高等学校卒業
芸能界入りしたきっかけ:1972年、オーディション番組のスター誕生で合格してホリプロに所属
配偶者:三浦友和
家族:三浦祐太朗、三浦貴大、牧野由依(義娘)
活躍時期:1973年〜1980年(結婚のため芸能界引退)
本書の背景
山口百恵の『蒼い時』は、1980年9月に第一刷が出版されています。
山口百恵が21歳のときでした。
俳優の三浦友和との結婚で、芸能界への引退を決めた山口百恵は、1980年10月に日本武道館にてラストコンサートを最後にマイクを置きました。
つまり本書は、引退直前に発売されています。
伝説の引退劇だったため、本書は発売当時に大きな話題を呼び、200万部を超える大ベストセラーになりました。
また本書は、タレント本としては珍しく山口百恵自身の執筆によるものだそうです。
プロデュースを手がけたのは、残間里江子というアナウンサーであり編集者でもある人物。この残間氏の活躍も大きく影響していると、当時は注目を集めました。
本書籍の概要について
『蒼い時』の目次をご紹介しますと、8章で構成されています。
・序章 横須賀
・出生
・性
・裁判
・結婚
・引退
・随想
・今、蒼い時
どんなことが書かれているのか、次で、各章について簡単にご紹介します。
序章 横須賀
山口百恵にとって、横須賀という土地は自分の原点の場所であると語っています。
たとえば、学校の前の新井ベーカリー(本のママ、店名はアライベーカリー)の揚げソーセージ、中央公園、さる島が、特に思い出深い場所でした。
新井ベーカリーは、横須賀線の汐入駅から徒歩15分の場所にあるパン屋さん。山口百恵ファンには聖地とも称された店でした。
残念ながら、店は数年前に閉店。しかし通りを隔てた場所にある、山口百恵が卒業した入斗中学校は、校舎を建て替えながらも現存しています。
山口百恵は、中学2年のとき、オーディション番組、スター誕生で準優勝。ホリプロ所属のアイドル歌手になり横須賀を離れます。
横須賀で同じ時を過ごした友人たちは、山口百恵に「さようなら」は言わなかった。いつでも帰ってこいと言われた。けれども気づけば遠い存在になってしまったようです。
出生
山口百恵の出自はよく語られていますが、両親は婚姻関係を結んでおらず、母はシングルマザーで山口百恵を産みました。
そのような背景もあり、山口百恵は自分がどこの病院で、どのように生まれたのを知らず、また自分を産んだ母の気持ちなどを、母から聞いたことはなかったそうです。
ですが本著を書くにあたり、父について書くことを母に伝えます。すると母は、あなたにとってのお父さんと、私にとっての彼とは違うものだ、と答えました。
つまり、父親についての捉え方が、山口百恵と母親とでは大きく違うことが明らかになっているということ。
どういうことかといえば、母は子供達にとっての父親はそう悪くない存在だったと思っていた。でも山口百恵は父を憎んでいた、というか父とは思いたくない、認めたくない否定すべき存在でした。
そういった心情が伝わるエピソードは、ところどころで綴られています。
特に印象的なのは、幼い頃、山口百恵と父が散歩をしていると「こわいおばさん」がこちらを睨んでいるというエピソード。
「こわいおばさん」とは父親の本妻のことで、父は妻と子のいる妻帯者でした。父親の名前については、本には書かれていませんが、久保茂という医師でした。
この父親という人物が厄介で、山口百恵が知らないところで事務所に金銭を要求したり、勝手に記者の前で会見を開いてしまった。
溜まり兼ねた山口百恵は、金銭を支払い払い親子関係を清算したらしいことも綴られていました。
性
アイドルとしてデビューした山口百恵は、当時のアイドル歌手らしく可愛くて夢のある歌ではなく、性をイメージした歌詞の『青い果実』『禁じられた遊び』を謳い大ヒット。人気歌手への階段を駆け上がります。
そのことについて、当時14歳だった山口百恵は、世間から「不良少女」と囁かれていたことを冷静に受け止めています。
またそこから話は、自身の初潮についても言及。11歳で初潮を迎えた彼女は、その後、性について考える機会が増えていく。女であれば誰でも経験する肉体の変化ですが、当時のアイドルは水着になる機会も多く、そのデリケートな問題についてマネージャーとのやりとりで感じた繊細な感情も綴られます。
そして何より、山口百恵にとっての性を意識した相手は、三浦友和ただひとり。
三浦友和と山口百恵は、結婚にあたり性についても話し合います。
そうするうち山口百恵は、結婚後のイメージとして、最初は二人の暮らしを落ち着かせたいと思っていました。けれどやがて自然の成り行きで子供を産みたいと考えるようになっていく。そんな率直な気持ちの変化も語っています。
裁判
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この裁判は、昭和51年5月『問題小説』という雑誌内において『悦楽のスタートー処女編』と題した記事が掲載されたことへの名誉毀損の訴えでした。
この当時、未成年だった山口百恵は、母・山口正子の名前で告訴状を提出しています。
そこに書かれていた内容は、いわゆるゴシップ記事で、舞台袖で山口百恵と●進一(演歌の大御所)があらぬ行為に及んでいたのを目撃したというものでした。
法廷に臨む山口百恵は、その日の服装で気持ちが変わるからと、敢えてピンクのワンピースを着ています。大勢の記者に囲まれながら法廷入りしたときの冷静な視線と思考が印象的でした。
その後、本件についは、1980年の東京地裁で『小説問題』編集長・菅原善雄に懲役6ヶ月、執行猶予2年、『女性自身』編集長代理・森元順司には罰金15万円という判決が下されています。
結婚
山口百恵は15歳のとき、CM撮影のため砧の緑地公園(砧公園)を訪れ、運命の出会いを果たします。
その相手はいうまでもなく、俳優・三浦友和。
彼の落ち着いた態度に訥々とした語感。芸能界でありがちな軽い挨拶ではなく、ぶっきらぼうな彼の態度に、逆に新鮮さを感じたと言います。
その後も、彼との共演は続きますが、最初2人は言葉を交わすこともすらままならかったのです。
やがて、映画『潮騒』の撮影で神島を訪れたときの記者会見でのこと。彼が、自分みたいにタレントらしい無難な受け答えをするのとは違い、率直な考えを少ない言葉で伝えたことで自分の中に恥ずかしさが芽生えた。そんな感情が波のように行き来し、やがて彼への恋心を確信します。
その後、数名で出かけたハワイで、山口百恵は彼から告白されます。
けれど嬉しさより驚きが勝り、無口で意地っ張りで甘え上手ではない自分が、彼から愛される資格があるのかと本気で悩んでしまったりも。
ほかにも7歳の年齢の開きなど、いろいろな感情が渦巻き、彼が好きでたまらないからこそ悩んでしまう。そんな誰でも感じる恋心が溢れているのが伝わりました。
やがて二人は付き合うようになって8ヶ月で結ばれる。でも山口百恵はその時点では、その先に結婚があるとか、相手への過度な期待は寄せてはいけなとも思っていました。
そんなあるときスタッフを交えて食事をしていたときのこと。一瞬、周囲に人がいなくなった隙を突くように「結婚を考えているからそのつもりで」と彼から言われ、山口百恵はただ「うん」と返事をします。
婚約発表会見から、遡ること1年ほど前のことでした。
引退
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三浦友和からのプロポーズで、山口百恵は結婚を決意します。
やがて山口百恵は、結婚後は芸能界を引退したいと思うようになります。分刻みのスケジュールで仕事をしてきた山口百恵は、結婚後にこの忙しさが続けば、彼が自分を必要としたとき、側にいることは難しいと考えたからでした。
そして大スターだった山口百恵の引退は、多くの人からあらゆる反応をされます。当時「キャリアウーマン」という言葉が飛び交い、飛んでる女の代表格だった山口百恵の結婚・引退は、さまざまな捉え方をされました。
芸能界引退を伝えなければいけない多くの関係者のなかで、山口百恵が最も高いハードルと捉えたのは、所属事務所であるホリプロ社長、堀威夫(ほりたけお)氏でした。堀氏と山口百恵は考え方の違いから、決して良好な関係を結んでいるとはいえず、独立の問題も実際に出ていたことを認めています。
ですが、緊張して面談に臨んだ山口百恵に対し、堀氏からは、結婚を喜び、最後まで自分たちがプロモートすること、また引退後も協力は惜しまないという返事をもらいます。
その堀氏からの言葉は、山口百恵が抱いていた社長の印象とは違うものでした。
また、三浦友和は、山口百恵との結婚を決めたとき、彼女が仕事を引退するとは考えていませんでした。山口百恵自身、実は自分の引退を一番驚いているのは、夫だろうと述べています。
あらゆる考えが交錯する中、自分は三浦友和と結婚し、彼の「女房」になることを望み、それが最も自分らしい生き方ではないかと綴っています。
随想
「スター誕生」
貧しかった家計を支えるためにオーディション番組に出場したと言われているけれど、実際は子供の好奇心のような気持ちだった。昔から歌がうまいと言われ、何となしに歌手になれる気がしてたものの、歌はダメだねと言われてショックを受けたとも書いています。
「劣等感」
喜怒哀楽を表に出さないこともあり「張り合いのない子」だと周囲から言われたこと。自分の性格についてのコンプレックスについても素直に語っています。
「数字」
17という数字に縁があり、ラッキーナンバーだと思っていたが、一度出席番号が18番になって何か悪いことが起きるのではと不安になりました。また偶数か奇数かでは奇数が好きで、それは割り切れいことが好きだったからとも。
大人びているようでも、19歳には憧れがあったと、少女らしい夢も綴っていて、実際に19歳にはいろいろなことが起きたとも。それは恋愛なのでしょう。
「歌」
職業は歌手なのだなと、最近になって自覚できるようになった。歌うことは好きだったけれど、職業になると好きだけではなく同じことが繰り返すこともあり、正直嫌いだと感じた時期だってあった。
歌手は個人プレーだけれど、プロジェクトを組んで仕事をするようになると楽しさが加わってきた。歌も最初は1オクターブだった声域が、ファルセットを入れれば3オクターブ出せるようになった。そうして歌い込んで、曲を自分のものにできるようになったとも語っています。
引退することになったけれど、歌を愛することができるようになってよかったと、思いを述べています。
「新聞配達」
中学1年生のとき、知り合いから頼まれて、夏休みの間だけ新聞配達のアルバイトをした経験があったそうです。学校の先生に相談をしたところ、すぐに許可してくれたのは、母子家庭で家系を支えるための労働と捉えられたためで、そんな大人の解釈をクールな視線で見つめてもいる少女だったようです。
ただし、新聞配達は始めてみると大変で、何度怒られたか分からないほどだったと締めています。
「予見」
コンサートのため山口百恵が岡山を訪れたときのこと。なぜかふと、和泉さんという熊本県にいる霊媒師のことを思い出します。一瞬会える気がしたものの、岡山県と熊本県では距離があるし気のせいと思ったら、驚くことに和泉さんがそこにいた。
そんなときは、バイブレーションのようなものが通じたのかもと山口百恵は書いています。
また全人類の3人に1人が宇宙人だと聞いた(どこから??)が、もしかすると自分も宇宙人ではと思ってしまう、空想好きな一面も書かれていました。
そんなふうに山口百恵はよく直感が当たったりするのですが、CBS ソニーの酒井ディレクター(酒井正利氏)からも「宇宙から母船が迎えに来る」と揶揄われたことがあるそうです。
「化粧」
子供の頃、誰もが経験するように、母親の鏡台からルージュをそっと塗ったときの記憶を経て、その後、仕事で化粧が必至になってから化粧が嫌いになったと山口百恵は書いています。特に付け睫毛は、不自然すぎるので、あれだけは絶対にしないと友人の歌手と誓ったそうです。
けれど、素顔ではリハーサルでも歌えない『プレイバックPART2』が、化粧をすると普通に歌えるので、使い方や場合いによれば化粧は使えることもあるとも。
「喝采」
夏の終わりに定期的に新宿コマ劇場でワンマンショーを経験したときは感涙したそうですが、それも回を重ねるうち、だんだんと受ける印象も変化していったと言います。
また山口百恵は、結婚によって喝采を浴びる生活から離れることに「その素晴らしさをいつか再び追いかけてしまう」のではと考えました。そして突き詰めた先にあったのは「不安」。すごく大きな喝采を受けても、それをすべて鵜呑みにすることができないという、どこか醒めた一面も持ってることが伝わりました。
「夢」
怖い夢を見ることが多く、それは生活が多忙を極めているときでも、すべてが上手く回り出しているときでも同じように怖い夢だったりする。昔の方がより抽象的だったように思える。それにいつの夢にも色がついている。
これは特に山口百恵に限った話ではなく、誰もが見る夢全般に言える話ではないでしょうか。ただ高校生のとき五反田のマンションに住んでいて…と、当時の暮らしが覗き見える下りもありました。
「色」
山口百恵の好きな色は黒。かつては黒、白、グレーばかり持っていたが、少しずつだが他の色も採り入れるようになった。でもやっぱり黒が好き。
「髪」
いろいろな髪型を試してきたが、一度パーマをかけたときそれが高校でバレてしまい始末書を書かされてしまった経験がありました。
当時の校則は今より絶対厳しかったはずなので、高校生だけど芸能人として仕事をする身は微妙な立場だったはず。
山口百恵はショートが好きでこれからも髪型を変えていきたいと締めていますが、確かに髪の長い山口百恵は、あまり見かけませんね。
「嫉妬」
あまり嫉妬深くはないと思っていたし、貧しい暮らしの中でも他人の暮らしを羨んだことはなかった。
「愛の嵐」という曲は、恋人に現れるかもしれない嫉妬を歌った曲で、その曲を歌った頃から嫉妬という感覚を意識するようになった。
たとえば「彼」への視線が異性を感じさせるものであるとやはり嫉妬してしまい、自己嫌悪に陥るだろうとも。結婚前に書いたものだけあって、やはり「彼」の存在は頻出します。
「死」
この世で最も恐れるものとして、山口百恵は死を挙げ、祖父が亡くなったときのこと、中西義宜という人が亡くなったときのことを書いています。中西氏は、山口百恵がコマ劇場でコンサートをするときに演奏をしていたビッグ・サウンズのリーダー。彼との思い出は、なかなか深い。
「友達」
芸能人になると友達ができずらいとよく言われるけれど、山口百恵には横須賀時代の友達と時折だが連絡を取り合っている。頻繁にではなく、たまに連絡を取り合う程度だが、それでいい気がしているとも。
また、芸能界での友人関係は、プロダクションの違いやマスコミの目があり、仲間意識を持って付き合うことは難しいと、難しい人間関係だと素直な気持ちを書いています。
桜田淳子とは品川中学校での同級生で、同じスター誕生からのデビューなこともあり、心強い存在でした。ただ、周囲の牽制から、わだかまりができてしまい、やがて彼女には大切な世界ができ関係は変わってしまいました。
けれど山口百恵が引退を発表したことで、これでわだかまりなく付き合えるかもしれないと素直な感情を吐露しています。
「金銭感覚」
自分で買ったことのないバッグを、珍しく買おうと手にとってみたが、6万円という値札に高すぎると感じた。芸能人は見境なく物を買うと思われているようだけれど、もともと高い買い物が得意ではなく、幼い頃には経済的に裕福ではない家庭に育っていることも影響しているのかもしれないと綴っています。
中学3年生のときの初任給が5万円、それも寮費、衣装代などで引かれ、マイナスになりました。そんな時もあったのですね。
「特別」
山口百恵は特別扱いを受けるのが嫌いで、高校の授業で教師に特別扱いを受けたとき、すごく嫌な気分になった、そう語っています。
「妹」
山口百恵には、淑恵さんという妹がいました。結婚後もしばらく同居していた妹のことを山口百恵はまるで娘のように可愛がっている様子が窺い知ることができます。
「海」
育った場所が横須賀だっったことが影響しているのか、山口百恵は海が好きで、三浦海岸に行ったときの思い出など、海にまつわる思い出がいくつかあり、ここでも桜田淳子と仕事でハワイを訪れたときの思い出を書いています。
今、蒼い時
この本は、芸能人・山口百恵ではなく、山口百恵という一人の人間としての終結であること。また、結婚して名前が変わる覚悟のような気持ちで執筆にあたったこと。執筆にあたっては、自分の名前が入った原稿用紙と万年筆で執筆に向かい、その4ヶ月は、芸能界で働いてきた8年間のなかでもとても。とても有意な時間だったそうです。
最後に、本書を出版するにあたりお世話になった人への謝辞。
そして「倖せになります」と本書を締め括られています。
個人的感想
読了後の正直な感想は、とにかく21歳の女性として、大変成熟しているということでしょうか。
21歳で結婚して芸能界を引退。未練の欠片も見せなかった(結果的に復帰することはなかったし)わけですが、わずか8年の活躍ですべてやり切ったという充実感が、山口百恵という歌手を別の場所に向かわせたことが窺い知れました。
そしてもし、三浦友和と出会わなかったら、彼女の人生は大きく違っていたはず。ただ大切なものを見つけたときそれを絶対に手放さない強力な握力のようなもの、それに伴う、凄まじい覚悟を感じられます。
本の内容と文面は、感じたことを思いのままに書いていて、正直散漫とした印象も受けます。よくも悪くも感覚的なので、万人受けする書き方ではないのかも。
また生理についてや性経験についてなど、随分生々しい表現をしていると感じる部分が多く、こんな内容をここまで詳細に書かなくても…と感じてしまうこともありました。ただ逆の言い方をすれば、やはり当時の芸能界は、こうして何かを破りたくなるほど息苦しい場所だったのかしれないという気持ちにもさせられます。
あとは一応は、全編を章立てでまとめていますが、まとまっているようで、恋愛と結婚、またその相手である三浦友和については、区切りはあまり関係なく随所に顔を出していました。
早い話、三浦友和にベタ惚れだった。そのことが伝わる一冊でした。