1990年の発刊当時、話題を独り占めした、二谷友里恵のエッセイ本『愛される理由』。
本書の概要と率直な感想を書きます。
1980年代当時を空気がうかがえる、なかなか面白い本でした。
ご本人も後日(もう一冊の著書『盾』を発刊した際)本書について恥ずかしいとコメントしていた記憶がありますし。
ちょっとその世界観を覗いてみましょう(笑)
【タレント本・自叙伝】愛される理由/二谷友里恵でバブル期のお勉強【概要と感想】
二谷友里恵のプロフィール(誰?)
まずは、著者である二谷友里恵のプロフィールから。
<プロフィール>
氏名:二谷友里恵(にたにゆりえ)(→ 原武友里恵 → 平田友里恵)
生年月日:1964年11月16日
出生地・出身地:東京都
学歴:慶應義塾大学文学部 国文学科卒業
芸能界入りしたきっかけ:1982年、資生堂エクボのCM出演
配偶者:1987年ー1998年 郷ひろみ(原武裕美)2000年 ー 平田修
家族:二谷英明(父)、白川由美(母)、二谷薫子(長女)、二谷新子(次女)
活躍時期:1982年〜1987年(結婚のため芸能界引退)
二谷友里恵の両親は、俳優の二谷英明と白川由美、二谷友里恵はお嬢様タレントとしてもてはやされました。
1982年のCM出演がデビュー、翌1983年、TBS系列のドラマ『青が散る』で女優としてデビューします。
その後も長渕剛主演のドラマ『家族ゲームII』などに出演しました。
ご両親は役者ですが、あまり役者に魅力を感じなかったか、肌が合わないと感じたかは定かではありませんが、ドラマ出演も多くはありませんし、映画や舞台にも出演していません。
ま、それも芸能界デビューの4年後には、郷ひろみとの結婚で芸能界を引退したこともあるのでしょう。とにかく二谷友里恵は結婚後、徐々にではありますが、表舞台から遠ざかります。
その後、本書のような書籍を出版したり、『YURIE NITANI』という自身の名前のブランドを設立したりと、郷ひろみを支える主婦というよりは、実業家としての活躍が目立つようになっていきます。
『YURIE NITANI』はコンサバ系のOLが好みそうなテイストで、バッグや小物、雑貨などがよく見かけられました。デパートの1Fでワゴンセールになっていた印象ですかね…。
本書の背景
二谷友里恵『愛される理由』は、1990年3月30日に第一刷が、朝日新聞社より出版されています。
書き下ろしではなく、1988年から89年にかけて書かれたものを『週間朝日』に連載され、それが本書として発売されました。
バブル時代のディスコ、レストラン、車、時計などの小物、海外生活などが、さりげなく登場。
慶應幼稚舎から同大学での卒業を控えていた時期、人気歌手の郷ひろみとの出会い、彼からぐいぐいアプローチされて結婚に至るまでの、ゴージャスな日々が、お嬢様のクールな目線で綴られています。
現在では芸能人のプライベートな行事はほとんどクローズですが、90年代くらいまでは、芸能人の冠婚葬祭はお仕事の一部と考えられていました。
とくにビッグネームで話題性のある芸能人の挙式はテレビで中継され、ご本人たちの莫大な収益にもなりました。
もちろん、こちらのお二人の結婚式もテレビで中継され、47.6%の高視聴率を記録しました。
個人的書評
本書を読みつつYouTubeにアップされている結婚式の中継を久々に見ていると、一体どうしてこの二人が結婚したんだろう、と、今更ながら違和感を覚えます。そのくらい今思うと、水と油のようなカップルという印象です。
当時の郷ひろみは、松田聖子との別離を経験しています。しかも結婚間近と囁かれた中での破局で、郷ひろみはすっかり結婚スイッチが入っていたのかもしれない。だからとにかく結婚がしたかったのかも。
一方の二谷友里恵は両親が俳優で、慶應幼稚舎から大学に通うお嬢様。また本人も書いていますが、自分で運命を切り開くというより、流される性格だったそう。
なので自分もと、学業との両立が前提にしろ、とりあえず芸能界デビューしてみた。で、やってはみたけれど役者を続ける覚悟もなく、どうも才能もなさげだった。お勉強は嫌いではないものの、就職する気もなかった彼女にとって、目の前に用意された『結婚』を受けることは、最善の選択に思えたのでしょうね。
この二人が合っていたのは、生活レベルと、真面目でストイックな性格。
ただストイックな性格は、二谷友里恵は真面目で皮肉めいていて、郷ひろみはナルシスト。郷ひろみも浮気していたそうですが、二谷友里恵がだんだん夫をウザく感じるようになってもおかしくない気がします。
本書籍の概要について
『愛される理由』の目次をご紹介しますと、19章で構成されています。
・パリ一人旅
・出逢い
・ペイズリー・パーク
・告白
・二十八日間
・ホノルルマラソン
・祝杯
・桂離宮
・カバーガール
・ニューヨーク・ニューヨーク
・卒業証書
・スポンジケーキ
・六月十二日
・はなむけの言葉
・EXPECTIONG
・ベルリン
・はじめての試練
・終章
昔の翻訳本のような言い回しが特徴的で、二谷友里恵の生真面目な性格が表れていました。
どんなことが書かれているのか、次で、各章について簡単にご紹介します。
パリ一人旅
パリに一ヶ月間の一人旅をしたとき感じたことが書かれています。
一人旅では毎日したいことができるが、食事がひとりだから寂しい。
当時大流行したルイヴィトンがお嫌いで、自分では持たないし買わない。
ルイヴィトンが嫌いな理由は、店員の態度の悪さ(海外のショップ)によるもので、バブル景気に浮かれ海外旅行に興じる日本人に対する、感情をあらわにした態度が嫌だ。
帰国後は友人らとパーティー三昧。親友は恵子の誘いで、六本木のプレステージというディスコに向かった。(そこで運命の出会いが待っていた)
出遭い
六本木のディスコ、プレステージで、二谷友里恵は郷ひろみと出会う。
二谷友里恵は両親から、自分が面識のなくても芸能人と会ったときには、必ず会釈するようにと教えられていた。
そこで互いに会釈。彼は「どこかでお会いしましたっけ?」と声をかけてきた。郷ひろみの言葉を常套句だと思いながらも、母親(白川由美)と郷ひろみが親子役で共演していたことに触れる。
するとディスコに来ていた知人が偶然、郷ひろみの同行者で、彼の席に誘われる。そのとき郷ひろみは、二谷友里恵が芸能界の仕事をしているとは知らなかった。
郷ひろみは二谷友里恵をゴルフに誘い、そこで連絡先を交換。二谷友里恵は携帯電話を持っていなかったのか、事務所か自宅か悩み、自宅の電話番号を口頭で伝えた。
門限が近づくと、郷ひろみが「送る」と言ったが、それは辞してタクシーで帰宅した。
白川由美に、郷ひろみと会ったことを話すと、「いい子だったでしょ」とお気に入りだったことを匂わせている。
ペイズリー・パーク
二谷友里恵は大学の夏休みが終わり、キャンパスライフが始まった頃。郷ひろみとのゴルフが実現する。
ある日、帰宅すると、郷ひろみとのゴルフの約束が、周りから固められ現実化しそうなことを二谷友里恵は察する。
芸能レポーターの鬼沢慶一、勝新太郎を誘い、四人で回ろうというもので、鬼沢慶一からの電話を父の二谷英明が受けた。その後、郷ひろみからも電話があり、四人でゴルフに出かけることが決まる。
場所は埼玉県の久邇カントリー。
バリ島帰りの郷ひろみは車中で、二谷友里恵に金のブレスレットを贈った。
二谷友里恵は、郷ひろみについて、ストイックな人という印象を持っていた。タバコも吸わず身なりもシンプルで印象は悪くはなかった。
ゴルフを始めたばかりの勝新太郎は、楽しさに目覚めて楽しそうだったが、二谷友里恵は雨が降り出したことと肌寒さでいまひとつだった。
二谷友里恵がハーフで止めようと思っていたのを察した郷ひろみが、雨具を買ってくれ、それを着て後半のコースに出た。
その後の食事には勝新太郎と鬼沢慶一は来なかった。郷ひろみと二谷友里恵は、運転手付きのメルセデスで、郷ひろみが通う会員制のスポーツクラブでシャワーを浴び、南青山のレストランで食事する。
時計をしていない二谷友里恵に、自分のロレックスはコンビで気に入らないので、シルバータイプのものを買うから同じものをプレゼントしたいと言い出す。
会ったばかりの人から受け取れないと断ると、それではクリスマスのプレゼントにと郷ひろみは言った。
まだ大学生だった二谷友里恵は、明確に意思表示はしなかったが、クリスマスプレゼントということは数ヶ月先まで知り合いでいるのかと思った。
その後も、郷ひろみから連絡があり、また送り迎えの際に、郷ひろみは二谷家にも入ってくるようになっていった。
告白
会って3回目、二谷友里恵は郷ひろみから結婚を前提にした付き合いを申し込まれる。
二谷友里恵は、慶應幼稚舎の友人たちに郷ひろみとの話をする。
彼女たちは、郷ひろみが当時交際を噂されていた、ゴルファー、芸妓のかつ乃などの名前を挙げ、気をつけるようにと心配してくれる。
が、今度は、郷ひろみから中野サンプラザでのシーラ・Eのコンサートに誘われ、コンサート行きたさで「これが最後だからと」行くことに決める。
コンサートの後の食事は、ヌーベルキュイジーヌのチャイニーズレストランに。そこで恋人の有無を聞かれ、話があると広尾のイタリアンレストランのバーに向かった。
そこで二谷友里恵は、郷ひろみから結婚を前提にした交際を申し込まれる。会って三度目のことだった。
郷ひろみから、自分をどう思っているかと尋ねられ、まだ若い二谷友里恵は「結婚は考えられないが、大学の友人と同じような気持ちで付き合うことはできます」と答える。
それを郷ひろみは、すぐに結婚するつもりはないが、付き合ううち結婚の返事をする、と感じたようだった。
二谷友里恵は、両親に、郷ひろみとの一部始終を報告。とくに父親の反応は芳しくなかった。
二十八日間
郷ひろみとは頻繁にデートするように。
サングラスをかけている郷ひろみに、身近に感じるようになった彼と、芸能人である彼との違いを見せつけられた気がした。
ある日、郷ひろみは、松田聖子と噂について打ち明ける。本当のことは誰にも話していないけれど、自分も彼女も傷ついた、その痛みがわかるから、結婚相手を傷付けないだろうと話す。
郷ひろみが松田聖子のことを話したのはそれきりだった。
また二谷友里恵も郷ひろみと出会う前、偶然、松田聖子と店で一緒になって、遠方から挨拶をしたことを思い出した。
この頃から、テレビで郷ひろみを見ると、二谷友里恵はまるで自分のことのような緊張感を抱くようになる。
やがて、二谷友里恵と郷ひろみの距離は近づき、結婚にも繋がっていった。
父は、二谷友里恵のこの状況を、流されていると感じていた。確かに二谷友里恵自身、これまで大きな流れには逆らわず身を任せ、自分の内なる声に耳を傾けながら様子を窺う性格だと認めている。
ホノルルマラソン
郷ひろみがホノルルマラソンに出場することになった。
それは番組の企画だが、何事にもストイックに取り組む彼の姿勢に、いつしか二谷友里恵は自分にはないものがあると、郷ひろみに惹かれていく。
ホノルルに出発する郷ひろみから、何か身につけているものをお守りにくれないかと頼まれ、ネックレスを思いつくが、長さが合わず、新しいものを買い求めた。
この頃になるとすでに、二谷友里恵は郷ひろみとの結婚を意識するようになっていたが、両親、特に父親の二谷英明は、娘の結婚を快く思わなかった。
郷ひろみのマラソンの成績は、四時間切れればと言われていたが、三時間三十八分三十秒という好タイムだった。
それにより父も二人の結婚を認めるようになった。
祝杯
両親からの結婚の許しを得たかたちになった二谷友里恵は、郷ひろみのマネージャーの小口健二も入れて全員でシャンパンで祝杯をあげる。
その後、両家は顔合わせをする。また、この頃から郷ひろみと二谷友里恵は、結婚後はニューヨークで生活することを考えるようになっていた。
桂離宮
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1985年9月20日、出会って3ヶ月。
二谷友里恵は郷ひろみとの結婚を決めた。
二谷友里恵は大学三年生。試験もあって大変だった時期なのに、交際報道で押し寄せてきたマスコミには腹がたった。
また、郷ひろみは一年間の語学留学をする予定があらかじめ決まっていた。
それで出発までに結納を済ませるようと、二人で約束したレストランで、郷ひろみは二谷友里恵に婚約指輪を贈った。
その指輪を二谷友里恵は試験のときも身につけて、ダイヤモンドを内側に回して、ひとりでその輝きを楽しんだ。
無事に試験を終えた二谷友里恵は、郷ひろみと両親の4人で京都の桂離宮を旅している。
慶應大学の国文学科は必修科目がたくさんあって過酷だった。一年生のときから芸能活動をしていたが、授業を優先したスケジュールを組んでもらっていたこともあり、出席日数は足りていた。ただ仕事が理由で留年するのは絶対に嫌だったので、命懸けで勉強を頑張ることになった。
桃の節句
昭和61年3月3日、郷ひろみと二谷友里恵は、赤坂プリンスホテルでマスコミ向けの記者会見をおこなう。
二谷友里恵はこのとき、植田いつ子のオーダーのワンピースを着た。
明鏡止水の境地だった。
カバーガール
郷ひろみが1年間のアメリカ留学に発つ日が近づくと、これから当分会えなくなるのだと、二谷友里恵は切なさを募らせるようになった。
いよいよ旅立ちの日、空港で郷ひろみが流した涙を初めて見たとき、また彼が自分の両親と抱き合うのを見て、居場所のなさを感じてしまった。一人になった二谷友里恵は、車の中で一人になってから涙した。
二谷友里恵は翌日、表紙撮影の仕事があって、泣き腫らした顔でどうにかこなすことになった。
スタジオにいた二谷友里恵に郷ひろみから国際電話がはいり、二人はしばし言葉を交わした。
ニューヨーク・ニューヨーク
大学4年生になった二谷友里恵は、留学している郷ひろみとは毎日電話をしていた。
そんなとき、二谷友里恵は大学を休み、ハワイで郷ひろみと再会する。旅のはからいは母の白川由美だった。家族でハワイに行き、郷ひろみと現地で合流するという旅だった。
ハワイからニューヨークに行き、郷ひろみはそこから寮に戻るという時間を過ごした。
そのとき家族で宿泊したのは、パークレーンホテル。東京大好きだった二谷友里恵だったがニューヨークが大変気に入る。
そこで郷ひろみから、結婚後ニューヨークに住むことを提案されると、二谷友里恵はすぐに合意。
卒業証書
結婚を6月に決め、ニューヨークのコンドミニアム探し、日本ではそれぞれの友人を紹介したりと忙しい。
そして二谷友里恵は、いよいよ大学を卒業式を迎えた。
友人のなかには郷ひろみをオカマじゃないのかと本気で心配する人がいたが、それを言葉にしてくれる友人は大切にしたいと本気で思った。
スポンジケーキ
結婚式のケーキはハリボテではなく本物にしたいと、招待客千人分のケーキを自分で焼くことにする。結婚式場の高輪プリンスホテルの厨房でシェフに手伝ってもらいながら、式の前日に巨大なスポンジケーキを焼き上げることができた。
また、両親からの反対を覚悟したうえで、仲人を立てないことを決めた。
六月十二日
挙式当日、五十歳を過ぎた夫婦がこの家で二人で暮らしていくことを想像すると切なくなる。
父から頬を打たれたときの気持ち、(二谷英明は苦労人で、大変な思いをして大学に通った)だから娘が流されるように時間を過ごしていることが耐えがかったようだ。
「時間というものは、流されるのではなく、迎え討つものだ」
そう話されて思わず涙した日のことを思い出した。
はなむけの言葉
式から一夜明けて原武友里恵になって、ハネムーンの準備をしながら、式のとき郷ひろみのスピーチで泣き通した。
二谷友里恵の父をはじめとする、自分に近いひとたちは、皆、郷ひろみの学歴のなさ(大卒ではない)をハンディキャップだと捉えていたが、ひとつの仕事を貫き通していることの方が重要ではないかと思う。
EXPECTING
子供のころ二谷友里恵は、平凡を嫌い波乱万丈な人生を歩みたいとよく口にしていた。
母からは、そうなったじゃないかと指摘されたが、まだ波乱万丈になるかはわからない。
結婚後の1年間は、ニューヨークと東京を半々で暮らした。そこで郷ひろみと一緒に『YURIE NITANI』のブランドを立ち上げた。それが忙しくなった頃、第一子を懐妊した。
ベルリン
郷ひろみが、映画『舞姫』に出演するため、3ヶ月ほど、ベルリンに滞在することになった。
ただその頃、チェルノブイリ事故による放射物質の影響が心配だった。
また『舞姫』で郷ひろみの相手エリスを演じた、リザ・ウォルフに、郷ひろみの妻と知られて撮影現場には入れなくなる。
はじめての試練
ベルリンからニューヨークに向かったのは、まだ日本にはない、MRI検査を受けるためで、妊娠の定期検診で腫瘍がみつかったためだ。
そこで手術が必要になり、郷ひろみに連絡を入れる。郷ひろみは『舞姫』の撮影でベルリンから離れることができなかったが、休みを取ってニューヨークにコンコルドで飛んできた。
手術では最悪の場合、子供や子宮の摘出が必要になるかもとドクターから言われひどく動揺するが、さいわいにも卵巣3分の1を摘出で手術を終えることができた。
終章
無事に手術を終えた二谷友里恵は、女の子を出産する。
二谷友里恵はこのエッセイをベルリンで書いていた。現在に近づくたび、自分が何を書いてきたのかわかり始めてきた気がする。
そうして二谷友里恵は、25歳になっていた。